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(すず)
和尚さん…
私のお母さんは朝起きたら
神棚とお仏壇にお祈りしてから
朝ご飯の用意するんですけど
神様とか御先祖様の霊とか
実際にいるんですか?
(和尚)
すずちゃん 今更ですか?!
なんで…?
(すず)
友達から日本の仏教系の大学では
原則として「お釈迦様は霊魂を
認めませんでした。」と
教えるみたいなんです。
だったら お母さんがやっているのは
無駄じゃないですか?
なんにも意味がないじゃないですか?
霊魂がないのならお葬式は
詐欺じゃないですか!
(和尚)
すずちゃん 全ての行動を
無駄 意味がないで捉えてしまうと
考えが狭くなってしまうよ!
これは面白い論点なんじゃ。
無我の解釈の違いなんじゃ!
すずちゃん 一日考えてみてよ!
いろいろ調べてみて…
すずちゃんなりの意見を聞かせてみてね
(すず)
これは 結構難しいですよ!
まぁ…頑張ってみますけど…
みんなも考えてね!😊
コメント
コメント一覧 (11)
死後の世界や輪廻転生について、いろんな本にそれぞれの解釈が載っていて、どれもおもしろく興味深かったのですが、腑に落ちてはおらず…。
今朝 和尚さんのブログを読んでからずっと、和尚さんやすずちゃんや皆さんの解釈がきけると思うとワクワクが止まりません♡
私たちはそもそも1つなので、死んだら1つになるのだろうと思います。
そこは1つで差のない世界だから、我を感じることはないのかな〜と。
でも、個々がこの世で魂を磨いて1つの場所にもどることで、その大いなる1つも磨かれて、全てが上昇するのかな〜と。
でも、1つの差のない世界の中でも、生まれ変わることを選択する意識はあると思うので、何と表現したらいいのか…。
また、3次元や時間の概念を捨てれば、ご先祖様もエネルギー体として私たちのすぐそばにいるのだと思います。
こんな感じで、スッキリはしていません。
皆さんのコメントが楽しみです♡
頭心の法則で言うところの、自我であり、それは心ちゃんのエネルギーが観念をつけた状態で外の状況に振り回されている状態
その自我、つまり今の自分だと信じているものを一度否定することで、自己の頭さんを造る
全てはエネルギーであり、個も全も同一である、ということが真理だとすれば……
神仏を否定するにいたる「無我」の解釈は、魂が実体を持つか否か、に囚われているために生ずるのではないのでしょうか
私も感覚的に分かっていても、説明できないことがまだまだ沢山あるなぁと思います笑
日々精進ですな(*´ω`*)
今日もありがとうございます☆
国語が苦手だったゆみちゃんには、難題です。(あ、観念みーつけた笑)
すずちゃんのお母さんは、思いはエネルギーを大切になさっているのだと思いました。お母さんは、神様やご先祖の霊を信じているから、守られているのではないでしょうか。すずちゃんのお母さんはそれでいいし。信じないひともそれでいいし。
ゆみちゃんは霊を見たことないからわかんないけど、ゆみちゃんも霊魂なのかな。この地球上でゆみこさんの体を使って生きている霊魂かも。
ていうか、和尚さんのお題に答えられてないかも。。。。むずー笑
認めませんでした。」
という部分がとてもひっかかったので調べてみました。
認めませんでした。というのは、必ずしも全てを否定しているものでは無いように感じたので。
全てが縁起でなりたっていて
空なんです。
実体は無いんです。
ということはつまり、
霊魂はある、とも言えないし
霊魂はない、とも言えない。
そういう意味で、
認めなかったのではないでしょうか。
無我
我なるものは、無い
「諸法は因緣より生ぜざる無く、因緣より生ずるが故に無我なり」
固定不変の霊魂があるわけではなく
「私」が変わりながら続いていくからこそ
輪廻転生していく
というのが、しっくりきました。
ゆみちゃん hawaii-taiyoちゃん
みなさんコメントありがとうございます。(^-^)
生まれる前から死後もずっと変わり続けながら続いていく永遠の魂はあるということが無我の解釈の違いってゆうことかなって思いました☺
あとさとるさんがすずちゃんに考えがせまくなってしまうよと言ったのも固定して捉えてしまうと自分もその枠に縛られて枠から出れなくなるよって言ってるんかなって思いました!
今日の記事も文字にするのも難しくて纏まりないですが自分なりに考えてみました(^_^;)
いつもありがとうございます(*^^*)
我なるものは無い。
今、我だと思っているもの(自我)を否定して顕われるものが真我。
だとすれば…今私だと思っている自分は無我を悟るまで(おそらく自我が無くなるまで)は、我はあらわれる。
あらわれている状態なら、あらわれたものをきちんと見る必要があります。
あらわれるものは心の中にあるものだからです。
始原の光からあえて分かれて、一旦個々として顕わしたものが魂ではないかと私は思います。
お釈迦様がどの様な意味で霊魂を認めなかったかは分かりませんが、霊魂という物質としての不変のエネルギーは無いと言うことだったんじゃないでしょうか。
それは段階を経て変わるから。
あらわれている状態であるなら、それはあるということです。
神様やご先祖様も心の外ではなく心の中にあるからです。
でも、最終的には無我の境地を悟るところに行きなさいという意味じゃないかな。。
今日のお題は難しかったけど、これが今の私の考えです(^^)
コメントありがとうございます。(^-^)
暴流の如し、滝のように流れている様。
阿頼耶識に蓄えられた自分の業力によって、一人一人が全く違う世界を生み出して、全く違うものを見ているようです。
心で思ったことを「意業」
口で言ったことを「口業」
身体で行ったことを「身業」
私達の思いと行いを一致させること「身、口、意」の法則
一致させた行いを「業(ごう)」と言い、行いの力「業力」こそ、決して消えることのない不滅の阿頼耶識におさまるとあります。
全てのものは因縁によって生じたものであって、様々な人や物が色々なつながりの中で、一定期間ある性質をもって、存在し、やがて消えていくけれども、その時には現象としての「現実」は認めますが「実体」ではない。
無我の「我は無い」という解釈。
この「実体」ではないものが「偽物の自我」であり、和尚さんの説かれている「心に観念が着いている状態」。
この「偽物の自我」を認めて、受け入れて、愛して、正して顕れる真我の事を「霊魂」とも「阿頼耶識」とも言えると思うのです。
皆さんと共に考案し、時代時代で使われる言葉の意味の解釈で合うものを見つけ、観測の次元を上げていくことは
外にある事象の見方も変わっていきますね。いつもありがとうございます。